キモオタの発祥に見るコンテンツ社会の臨界点 (ITmedia)

モノカキさんってのは、うまいこと書くなぁ、と日々関心させられるわけですが。

近年、「オタク」という語感の持つ脱社会的な部分が抜け落ちてしまい、次第に清潔なものになりつつある。だがこれは、名指ししていた層が変化しただけのこと。かつての「オタク」を指す部分に入るべき言葉??「キモオタ」について考えてみた。

かなり初期の段階から、俺は「ヲタク」を自称してた。当然、いい意味でのヲタクであって、人よりも何かを知ってたりとか、詳しかったりとか、そういうことを多少自慢する意味でもあった。でも、周囲の人たち(特に子ども)からは、「自分でオタクって言うなんて、変!」って言われてて、そういう人たちにとっては、「ヲタク」という言葉は差別であったり蔑みであったりの意味しかなかったんだと思う。
昔から、「ある分野に長けた人、秀でた人」に対する言葉って言うのは、プラスマイナス紙一重的であることが多いようで。「○○キチ」なんて、言葉狩りの対象にされたりするけど、最高の褒め言葉だったと思うし、「マニア」を変態的愛好者として使う場合もあるし。ってか、この「変態的愛好者」も実は褒め言葉として使えたりもするし。
でもって、コデラさんの記事の中で、現代においては「キモオタ」は蔑称であるという過程のもとで、次のようなことが書かれている。
ちょっと長いけど、引用。

 それならばキモオタは、なぜキモいのか。簡単に言うならば、社会との接点があり、その基準から外れた言動をするからである。もう一歩踏み込んで考えてみれば、キモオタの特徴的な行動とは、偶像と実像のメディアチェンジが行なわれたことに気がつかない状態であると言えるかもしれない。

 例えばある声優がいたとしよう。自分の部屋でその人をいくら応援しようが、キャラの抱き枕で身モダエしようが、本人の勝手である。マスメディアに乗って部屋までやってくる声優という存在には、実体がない。そんな中においては、自分自身の存在もまた、実体を失っていく。

 だがイベントなどで実際に声優が現われたときにも、部屋と同じ反応を返してしまうと問題がある。通常であれば、いつも見慣れている虚像が実体化した状態において、自分自身も実在の人間であることを意識しなければならない。すなわちイベント会場という公共の場において、自分と同じく生身の人間がたくさんひしめき合うからには、お互いが快適でいられるような配慮が必要なのである。

メディアチェンジ、っていう視点ね。ふむふむ。で、続き。

 例えばタレントがロケで街に出ると、まるで知り合いのように話しかけてくるオバチャンが必ずと言っていいほど存在する。これなども、普段テレビで見ている虚像が目の前で実体化したときに、自分の方がメディアチェンジができていない例であろう。

ここで、ふと思った。いわゆる「若者」ってのは、ここで言うメディアチェンジに相当することが、うまくできていないんじゃぁないか。
人のじゃまなところで地べたに座ってるやつら。電車で化粧するバカ女。人ごみで大騒ぎするグループ。腰パンやルーズソックスを地面に引きずってる「ふぁっしょなぶる」。
自宅のリビングで寝そべっていても、対して文句は言われない。カラオケボックスで大騒ぎしても問題ない。家の前の水たまりで、服を濡らしながら遊んでいても大丈夫。本来、そういう個な世界、パーソナルな空間で行われるべきことを、公のところで平気でできてしまう、というのが、「いわゆる若者」なんだろーか。

 普段テレビを見ているときは、マスメディア上の「公」に対して、視聴者は「私」として接している。「公」の存在が目の前にあるときは、自分もまた社会人として、「公」の状態で接するのが通常だ。それをいきなりお茶の間で寝転がりながら尻掻いてるような態度でなれなれしくされては、「あの人だれ? キモチワルーイ」と思われても仕方がない。

オオサカのおばちゃんは若者を「アホちゃう」といい、若者はおばちゃんを「ありえねー」という。結局、アンタらはどっちもキモヲタなんですよ、ってことなんだろーか。
そういう俺も、きっとキモヲタ。